2025年1月30日 公開
今から30年ほど前まで、富士山頂に気象レーダーがあったことはご存知でしょうか?その気象レーダーに当社の前身会社である新日本無線の製品が使われていたことは、実はあまり知られていません。今回は、かつて、富士山頂の気象レーダーに使用されていた当社のマグネトロンにおける当時の開発の背景や裏側と、プレミアムオーディオ向け高音質半導体デバイス「MUSES」シリーズの誕生について、社員インタビューを交えながらご紹介します!
★★★
はじめに
日清紡マイクロデバイスは、2022年1月に旧新日本無線と旧リコー電子デバイスが統合してできた会社です。新会社としては4年目を迎えたばかりですが、旧新日本無線は1959年に、旧リコー電子デバイスは1981年に設立され、それぞれ長い歴史を持っています。以前、社長紹介コラムで、旧リコー電子デバイスの歴史を取り上げましたが、今回は、旧新日本無線の歴史に焦点を当てて、マイクロ波事業の歴史を象徴する「富士山頂気象レーダー用マグネトロン」の開発、当社の高音質技術を象徴するプレミアムオーディオ向け高音質半導体デバイス「MUSES シリーズ」の誕生について、それぞれ歴史を知る社員へインタビューを実施しましたので、ご紹介したいと思います。
また、電子デバイス事業については、公式ブログでも、基礎知識やFAQ、製品開発秘話など、さまざまなテーマで取り上げてきましたが、マイクロ波事業についてはこれまでほとんどブログでご紹介する機会がなく、一体どんな事業なのか気になっている方も多いと思います。この記事を読んで、少しでも当社のマイクロ波事業について知っていただけるきっかけとなれば幸いです。
気象関係者とレーダーメーカーの夢を実現した新日本無線のマグネトロン
日清紡マイクロデバイスのマイクロ波事業は、旧新日本無線が最も長く続けている事業です。その豊かな歴史の中でも特に象徴的なのが、富士山頂気象レーダー用マグネトロンの開発です。マグネトロンとは、マイクロ波を生成する電子管で、レーダーや電子レンジの中核を担っています。富士山頂に気象レーダーを設置し、「台風の一生」を連続して観測し解明することは、気象関係者とレーダーメーカーの夢でした。1964年(昭和39年)に運用開始した富士山頂の気象レーダーには、旧新日本無線のマグネトロンが使用されていました。運用当初は、2年間で30本を超えるマグネトロンを注ぎ込み、そのため何度も山頂まで登るなど辛うじて運用を維持するというという状態でしたが、カソードの改良(含浸型陰極)により完成したマグネトロン M159 の寿命は4,000時間を超えるに至り、1999年(平成11年)の運用終了まで旧新日本無線のマグネトロンが富士山頂気象レーダーの中核を担っていました。
今回は歴史が古いため、開発当時の関係者はすでに引退しており、その関係者と親しかった常務執行役員・マイクロ波事業本部長の及川和夫氏と、同じくマイクロ波事業本部 製造部 生産技術課の小畑英幸氏に、当時を振り返りながら、富士山頂気象レーダー用マグネトロンの開発についてお話を伺いました。
川越事業所に展示されている 富士山頂気象レーダー用マグネトロン M159
― 富士山頂気象レーダー用マグネトロンの開発に関して、特に印象に残っているエピソードがあれば教えてください。
小畑:歴史が非常に古いため、製品の製造現場は見たことがありますが、開発はかなり前に完了していました。1964年から運用されていた富士山頂の気象レーダーは、台風被害を防ぐために非常に大きな社会的貢献を果たしており、天気予報で富士山のレーダー画像が使われるのを見ると、「これは我が社のマグネトロンが動いて得たデータだ」と誇りに感じていました。苦労話については、及川さんも先輩方から多く聞いていると思いますが、非常に大規模なプロジェクトであり、技術的な課題も多く、非常に苦労されたそうです。私も現在マグネトロンの設計をしていますが、当時は充分な測定器が無い中でよく完成させたものだと感心しています。
及川:富士山頂気象レーダー用マグネトロンは、通常のマグネトロンと比べて、キャビティの直径が約4倍も大きいです。そのため、非常に大きく重いものを精密に組み立てる必要があり、さらに高い電圧をかけることも求められました。マグネトロンの製造だけでなく、電圧をかけたり試験するための周辺装置もほとんど自社で製作していました。前例が全くない中で、多くの人々が協力して作り上げたことは本当に素晴らしいと思います。
常務執行役員・マイクロ波事業本部長 及川 和夫
― 日本でまだ実用化されていなかった含浸型陰極の技術開発に、どのように取り組んだのでしょうか?
小畑:マグネトロンの陰極(カソード)は、時間が経つにつれて電子放出物質が蒸発し、最終的に寿命を迎えます。特に大出力のマグネトロンでは、この消耗が早く、交換の頻度が増えてしまいます。台風が接近している際に寿命が尽きると大変です。寿命を延ばすためには、大電流を流しても蒸発を抑えられる含浸型陰極が適しています。旧新日本無線の社長がカソードの研究者でもあった方で、開発当時管理職だったと思いますが、こうすればできるのではないかというアイデアを出し、それに応えてエンジニアたちが製品化したという経緯があったそうです。かなり厳しい指導もあったようで、「日本一の山に設置するものを甘く考えるな」といった厳しい言葉もあったと聞いています。含浸型陰極のアイデア自体は既に知られており、基礎技術も存在していたと思いますが、それを短期間で製品化し、特に超大電力用に適用するには大きな技術革新が必要だったと思います。
及川:物を作るというのは、最初から何かがあるから始めるのではなく、この市場でこのビジネスを展開すれば成長するだろう、この技術を導入すれば性能が向上するだろう、という考えからスタートします。そして重要なのは、既存の技術があるかどうかではなく、量産可能な製品に仕上げることです。安定して何万台も生産でき、最終的なコストが顧客の要求に近づき、信頼性のある製品を作ることが大切ですので、これからも進化し続けなければならないと考えています。
マイクロ波事業本部 製造部 生産技術課 小畑 英幸
― 富士山頂で気象レーダーの試験運転が行われた際、社員も実際に山頂まで行ったのでしょうか?
小畑:はい。先輩たちは山頂に行っていました。ブルドーザーなどで部品や資材を運ぶ役割の方と一緒に登り、動作確認に立ち会ったり、運用中も点検や確認のために登ったと聞いています。高山病の影響もあり、非常に大変だったそうです。
及川:夏以外には富士山頂に登ることができなかったようですが、私の先輩は、マグネトロンの交換のために夏に行く予定が決まると、1~2か月前から体を慣らすために、毎週自宅と会社の間の約20kmを歩いていました。富士山気象レーダーについては、NHKテレビの「プロジェクトX」の第1回放送や、新田次郎さんの小説「富士山頂」の映画など、さまざまな形で紹介されています。また、富士吉田市にある「富士山レーダードーム館」には実物が展示されています。
富士山レーダードーム館
【住所】〒403-0006 山梨県富士吉田市新屋3-7-2 【リンク】https://fujiyoshida.net/spot/13
展示写真 富士山レーダーの実物(上の部分)
IEEEマイルストーン認定証
当時の測候所を再現した1/50のジオラマ
旧新日本無線製 富士山レーダー用マグネトロン M159
日本で初めて電子レンジ用マグネトロンを製造したのも新日本無線です!
― 富士山頂への採用以前にも、気象レーダーへの採用実績などはあったのでしょうか?
小畑:狭い範囲の気象観測用に、数百kW程度の出力のマグネトロンが製造されていました。しかし、富士山頂レーダー用のマグネトロンM159は、日本全土をカバーするために、1500kWという非常に高い出力でマイクロ波を発振する性能が求められました。富士山頂は標高3,776mで気圧が低いため、高電圧を使用すると放電が発生しやすく、動作条件がさらに難しくなりました。このようにして高性能なマグネトロンの開発が進められ、当時の新日本無線にとっては社運を賭けた大規模なプロジェクトであったことがわかります。
― 1999年に富士山頂気象レーダーの運用が終了した後、現在ではマグネトロンはどのような用途で使用されているのでしょうか?
小畑:おそらく気づいていないかもしれませんが、皆さんの家庭にはマグネトロンが1つはあるでしょう。それは電子レンジに使われています。日本で初めて電子レンジ用のマグネトロンを製造したのも新日本無線です。現在、当社のマグネトロンが最も活躍しているのは、船舶に搭載されているレーダーです。日本無線様をはじめ、世界中の船舶用レーダーに採用されており、その市場シェアは世界で圧倒的なNo.1※です。世界中の港で船舶を見ても、当社製のマグネトロンを搭載していないレーダーを見つけるのは非常に難しい状況です。
※2024年 当社調べ
![]() |
![]() |
![]() |
日清紡マイクロデバイスの気象・航空管制用レーダーコンポーネント
リンク:https://www.nisshinbo-microdevices.co.jp/ja/products/micro/radar_government/
以上が、富士山頂気象レーダー用マグネトロンについてのインタビューです。いかかでしたでしょうか?
マグネトロンって結構身の回りで使われているのですね。"マグネトロン"という言葉自体、聞き慣れないという方もいらっしゃるかもしれませんが、ご家庭で電子レンジを使う際、船や空港を利用される際に、当社のマイクロ波製品のことを思い出していただけたら幸いです!
それでは次に、新日本無線時代に誕生した、当社のプレミアムオーディオ向け半導体デバイス「MUSES」についてお話していきたいと思います。
MUSESシリーズの起源 ~ロングセラーIC「NJM4558」を基礎に~
MUSESシリーズの誕生は、長年にわたって多くの電子機器に採用され続けてきたロングセラーIC「NJM4558」を基盤としています。NJM4558は、1971年にシリコンバレーで誕生したRC4558が新日本無線に移管され、1976年に日本国内での生産が開始された汎用オペアンプです。NJM4558は、その優れた性能と信頼性から、数多くの電子機器に採用され、長期間にわたって愛用されてきました。1985年には累積5億個の販売を達成し、50年近く経つ現在も販売されています。このNJM4558をベースにラインナップを拡大し、オーディオ用途として高音質の地位を獲得してきました。NJM4580、NJM5532等、様々な当社のオペアンプがオーディオ用途をメインとしてトップクラスの生産量となっていました。2003年のオペアンプ世界シェアでは、当社の前身会社である新日本無線がトップシェアとしてランクインしていました。
汎用オペアンプ NJM4558
近年、オペアンプの汎用品は主に低コスト化が進み、高付加価値製品は高精度と高信頼性を重視する方向にシフトしました。そのため、オーディオ用オペアンプの新規開発が一時停止していた時期もありました。しかし、音質向上への取り組みは続いており、オーディオ用オペアンプの地位を再び確立するためにMUSESシリーズが開発されました。MUSESシリーズは、NJM4558の基本設計を活かしつつ、音質をさらに向上させるための改良が施されており、オーディオファンや専門家から高い評価を受けています。これにより、MUSESシリーズはオーディオ用ICのフラッグシップモデルとしての地位を確立し、音楽再生において新たな次元の音質を提供することを目指しています。
![]() |
![]() |
MUSES01 / 02
"Mr. Dolby"とも言われていたMUSESシリーズ開発者の人物像に迫る!
MUSESシリーズの誕生について簡単に触れましたが、そのプロジェクトマネージャーである瀬志本 明がどのような人物なのか、興味を持つ方も多いでしょう。MUSES開発の話に加え、Dolby ICの設計、新入社員時代や学生時代のエピソードについても伺いましたので、ぜひご覧ください。
― 学生時代にはどのようなことを学ばれていましたか?
瀬志本:ものづくりが好きで、特に電気関係のラジオ工作に興味を持っていましたが、趣味だけでなく、電気についてもっと深く学びたいと思い、中学3年生の頃に国家試験のアマチュア無線の免許を取得するために、趣味と勉強を兼ねて電気を学び始めました。当時は、今のようにスマホで簡単に通話できる時代ではなく、遠くの人と話す手段としてアマチュア無線は非常に有効でした。年に数回ほど外国の人とも交信ができ、不特定の人と話せることが面白いと感じていました。アマチュア無線は通信料がかからないため、今のスマホのように夜通し無線で話していました。大学時代に住んでいたアパートからも無線を使い、近くに住む人と知り合って親しくなり、一緒に遊んだり食事したりしていました。大学では東京理科大学に進学し、電気工学を専攻しました。
― 新日本無線に入社を希望した理由は何ですか?また、入社を決めた際に取り組んだことはありますか?
瀬志本:当時、景気が悪く、大学4年生の夏休みを過ぎても就職が決まらず、夏休み明けに研究室の先生に相談しました。先生の師匠の方が当時の新日本無線の社長とつながりがあったため、紹介を受けて会社見学に行ったところ、突然試験を受けることになり(笑)、その後、面接にも合格して新日本無線に入社しました。私は、卒業研究でマイクロコンピューター(当時はまだパソコンはというものは無く、一部屋もある大型コンピュータしかなかった)に関する論文を書いており、デジタル分野を中心に取り組んでいました。そのため、入社後にアナログについて学び始めました。当時、設計部ではなく、8人ほどの小さなIC設計課という部署があり、そこで先輩から指導を受けたり、若手同士で勉強会を開いたりしていました。理科系の大学では実験レポートの提出が最も重要で、毎週月曜日にレポートを出さなければならず、その月曜日の午前中の授業中にレポートをまとめていました。その授業がたまたま半導体物性の授業でした。新日本無線への入社が決まるまではデジタル中心のことをしていたため、授業を真面目に聞かずにレポート作成に集中していました。アナログICの設計には半導体物性の知識が非常に重要ですのでもっと授業をしっかり学んでおけばよかったと入社してから後悔しました(笑)。
― 入社後の担当部署と業務内容を教えてください
瀬志本:当時、新卒は入社後の半年間、製造現場での実習がありましたが、新日本無線の親会社であったレイセオン社が日本にデザインセンターを作るということで、私がそこの新人のメンバーとして採用されることになり、すぐに配属されることになりました。しかし、その後その話はなくなり、先ほどの話にも出たようにIC設計課へ配属となり、そこで半導体の設計が始まりました。初めはオーディオアンプや医療用の超音波診断装置のICの設計を手掛けていました。
新規事業開発本部 応用技術部 瀬志本 明
― オーディオに興味を持たれたきっかけや、特に好きな音楽ジャンルがあれば教えてください。
瀬志本:当時、高級品だったレコードが家でも聴けるようになった時から聞くようになり、演奏という意味では私はギターをちょっとやっていたり、私の妹が音楽が大好きで音大にも進学していて、普段から音楽が流れるような家であったりと、普段から音楽が聴くような環境だったことがキッカケです。好きな音楽ジャンルとしてはクラシックや青春時代に流行していたフォークソング等です。あと最近は、小学校の音楽で習うような童謡、小学唱歌とかが好きで、イージーリスニング的に聞いています。
また仕事としては、後にウォークマンに代表されるポータブルオーディオプレーヤーに、長く搭載されることになる「Dolby Noise Reduction IC」という世界初の低電圧動作ICの設計を担当していましたが、アメリカのDolby研究所が特許と商標権を持っていたため、Dolby研究所の要求する仕様に合致しないと「Dolby」と名乗ることができませんでした。そのため、何度もアメリカに行き、ICチップを試作してテストを受け、実際に音を聴きながら音質評価の方法を学びました。もともと音楽は好きでしたが、仕事として音楽に関わることで、次第にプロの耳を持つようになったことで、日本でDolbyのことなら瀬志本に聞けと言われるようになり、業界では「Mr. Dolby」とも呼ばれるようにもなりました。また、アメリカの映画は映像がハリウッドで作られ、音はサンフランシスコ北部で後から付けられることが多いのですが、私も仕事でハリウッドを訪れたり、様々な人と会う機会がありました。ハリウッド映画監督のジョージ・ルーカス氏に会ったこともあり、その際にはインディージョーンズの鞭やスターウォーズのライトセーバーを触らせてもらうなど、面白い経験をたくさんしました。
― MUSESシリーズの開発は、企画からどのくらいの期間で始まったのでしょうか?
瀬志本:1971年に発売した汎用オペアンプ「NJM4558」は多くの電子機器に採用され、オーディオ用途でも様々なメーカーで採用されていました。しかし、ある時、オーディオメーカーから「新日本無線のNJM4558は音質が良くない」と指摘されました。当時、私たちはオペアンプの音質についてあまり理解していませんでしたが、彼らのオーディオルームで実際に音を聴きながら直接指摘を受けました。その結果、オーディオメーカーと共同でオペアンプを開発することになり、オーディオ用オペアンプ「NJM4580」が誕生しました。この製品は市場でヒットし、その後、NJM4580やNJM5532をはじめとするオーディオ用オペアンプのラインナップを拡大し、新日本無線のオペアンプは高音質の地位を確立しました。しかし、高級オーディオ機器には、海外メーカーの高性能オペアンプがNJM4580の20倍の価格で採用されるようになり、我々の優位性が失われつつありました。そこで、高音質の地位を取り戻すために再挑戦し、企画からは約1年半から2年で高音質オペアンプの新規開発に着手しました。
― 開発当時に直面した困難や苦労した点は何ですか?
瀬志本:当時、前の社長はMUSESのブランディングには否定的でした。「半導体にそんなブランド戦略はないだろう」と言われ、「まさかMUSESのロゴみたいなものをICにマーキングするつもりじゃないだろうな」とも指摘されました(笑)。しかし、翌年に社長が交代し、新しい社長にMUSESについて相談したところ、「いいね!やろうよ。」と快く賛成してくれました。開発には多くの苦労があり、MUSESの量産は非常に困難でした。通常なら量産は無理だと断られるところですが、MUSESが評判を得たことで、製造部門の人たちも「お客様が良いと言っているなら頑張ろう」と理解してくれました。また、営業部門も、部品は安ければ売れるという考えが一般的でしたが、MUSESは高価でも売れることに気づきました。当時、営業、製造、設計のメンバーでMUSESプロジェクトチームを組み、それぞれがリーダーシップを発揮して現場を動かしてくれたのが良かったと思います。
また、当時の新日本無線の主力製品はオペアンプで、主な顧客もオーディオメーカーが多かったため、音に対して会社として寛容な文化がありました。工場にオーディオルームを作る際も、最初は遊びだと言われましたが、最終的には許可されました。オーディオに対して寛容であることは良いことで、他にこんな会社はないと思います。材料の変更などで音が変わるなど、自分たちでさえも同じ音を再現することが難しい、そんな奥深いものになっているので、他社には簡単に真似できないと思いますし、それが強みだと考えています。
もう一つの強みは、当社のもう一つの柱であるマイクロ波事業と組んでマグネトロンという製品で使用している純度99.99%の無酸素銅を初めてICのリードフレームに応用したことです。この素材は半導体の量産ではかなりやっかいなものです。これは未だに他の半導体メーカーでどこも実現していません。
![]() オーディオルーム(川越事業所) |
![]() 純度99.99%の無酸素銅を採用したICのリードフレーム |
― MUSES01/02がリリースされた後の反応について、どのように受け止めましたか?
瀬志本:NJM4580の開発時には、価格を何十円に抑えるという制約があり、その範囲内での製品開発しかできませんでした。しかし、MUSESの開発においては、生産コストを度外視して、まずは圧倒的に良い音を追求するというコンセプトでスタートしました。例えるならF1カーのように、MUSESは技術力を示すためのフラッグシップモデルとして位置づけられています。MUSESは高価ですが、たとえMUSES自体が売れなくても、その下位モデルのオーディオ用オペアンプの価値が上がるという看板商品としての役割を果たしています。優れた材料と技術に労力を投入し、2009年にMUSES01/02を1個3,800円で発売しました。音質には自信がありましたが、通常1個30円程度の製品が1個3,000円を超える価値を認めていただいたことに感謝しています。「オペアンプという物理的な価値」に「聴いて喜びを感じられる効果という意味的な価値」を吹き込めたと思っています。
また、嬉しかったのは、MUSESを使用している方々がSNSでMUSESについての投稿や交流を行い、偽物に注意するよう呼びかけたり、偽物を見破る方法を共有してくださっていることです。このようにして、MUSESはファンの方々と共に築き上げたブランドになっていると感じています。
― MUSESシリーズの開発を通じて得た学びや、感じたやりがいについて教えてください。
瀬志本:当初は、設計部長を務めていましたが、自分たちの製品をもっと広めたいという思いから、マーケティング部門に異動しました。理系出身のため、マーケティングについては不慣れで戸惑っていましたが、電車のつり革広告で見かけた大学の社会人向けマーケティング講座に興味を持ち、同時に異動となった後輩と一緒に通い始めました。その頃、SNSが流行し始め、ブランディングの重要性が増していたため、単に電子部品をオーディオメーカーに販売するだけでなく、販売方法にも工夫を凝らすことにしました。MUSES01/02の発売を記念して、SNSを活用し、クリスマスの12月25日に10名に当たるプレゼントキャンペーンを実施しました。これにより、BtoBからBtoCへのブランディングを行い、個人のお客様(消費者)の心をつかむことができました。そしてファンの皆さんが、オーディオメーカーに対し新日本無線のオペアンプを使用したオーディオ機器を作ってほしいとSNSで発信するようになったり、雑誌での露出が増え、MUSES搭載がオーディオ機器のブランドの一部として認識されるようになりました。ただ指示されたものを作るだけでなく、会社を代表するブランドを築けたことは非常に良かったですし、マーケティングの重要性を改めて実感しました。大学の講座で学んだマーケティングは簡単に言うと「顧客の笑顔を引き出す全ての活動」なのですが、その学びを実際に活かせたと感じています。
― 日清紡マイクロデバイス全体の会社の雰囲気について、どのような良い点があると思いますか?
瀬志本:今、半導体は大きな流れになっていますが、オーディオだけでなく、車載や産機などいろんな世界で、この会社がいなければ困る、という部品が世の中に提供できているところが良いところだと思います。また、日清紡マイクロデバイスは半導体製品を自社で設計・製造・販売しています。コア技術があって、それを生産する技術があり、一貫して全て自社でできるというところに価値がある会社だと思います。
― 新社会人や就職活動中の学生へのメッセージをお願いします
瀬志本:先ほども述べましたが、ものづくりを通じてお客様の笑顔を引き出すことの価値を、ぜひ皆さんにも実感していただきたいと思います。自分のやりたいことをするのではなく、自分が作った製品がお客様に喜ばれている姿を見て嬉しく感じる、そういった喜びを味わってほしいです。趣味の世界は自分が楽しむものですが、それを製品として世に出し、お客様がそれをお金を払って購入し、使って喜んでくれることに喜びを感じることができれば、趣味を超えてプロの世界でのやりがいを見つけられると思います。ぜひ、そういったことに挑戦してほしいです。また、音楽はこれからも50年、100年先でも皆さんが聴き続けるものであり、なくなることはないと思います。音楽への思いを絶やさないためにも、皆さんにもスマホの音だけでなく、実際にコンサートに行って現場の音楽を聴いたり、それを自宅でも再現できるように興味を持ってほしいと思います。
― 以上でインタビューを終わります。ありがとうございました。
高音質の音楽試聴とeスポーツができる体験室「ジャー坊の音楽ラボ」
日清紡マイクロデバイス(株)・(株)ASKプロジェクト・有明高専・大牟田市で「まちなかシリコンバレー」と称して4者共同のプロジェクトとして実施している、高音質のMUSES試聴、蓄音機、eスポーツ、DTMが体験できる音楽ラボです。(大牟田市イノベーション施設「aurea」内)
【住所】 〒836-0842 福岡県大牟田市有明町1丁目1−22
【リンク】https://www.msv.asia/musiclab/
※ジャー坊とは、大牟田市公式キャラクターです。(写真参照)音楽ラボ内のジャー坊
インタビューを終えて(あとがき)
今回、旧新日本無線の歴史として、富士山頂気象レーダー用マグネトロンと、プレミアムオーディオ向け高音質半導体デバイス“MUSES”についてお話を伺いました。私は、2018年に新日本無線に入社をし、このような歴史があること自体は知っていましたが、ここまで深くお話を聞く機会がなかったので、今回のインタビューを通じて、技術力や生産力など、歴史的観点から日清紡マイクロデバイスの強みを理解することができました。また、インタビューの中では、ものづくりをする上で重要なこと・考え方、ものづくりに対する想いも語っていただきました。60年以上にわたって培われてきた強みを活かし、今後も進化を続けていく日清紡マイクロデバイスの姿を皆さまにお届けしたいと思います。
▼おすすめ記事・基礎講座
若手技術者による社内イベントの様子をお届け!
日清紡マイクロデバイスでは、顧客価値やシステム理解やプレゼン力を高めるための教育イベント"ハッカソン"、電子回路学習を目的とした若手技術者主催の自作ヘッドホンアンプコンテストなど、若手技術者主体の社内イベントを行っています。ブログではそれぞれの活動内容や経緯、若手技術者が作り上げた各作品をご紹介しています。
リンク:ハッカソンで若手技術者が生み出したデモ機たち
リンク:日清紡マイクロデバイスの自作ヘッドホンアンプコンテスト~個性が音に反映する!?~
オペアンプを基礎から学びたい方へおすすめの基礎講座!
オペアンプ基礎講座では、オペアンプがどのように動作するのか、その種類や主要な構成要素、それらがどのように使われるのか、さらにはオペアンプの具体的な応用例などについて解説します。電子回路の学習を始めた方、回路設計を始めたばかりの設計初心者だけでなく、オペアンプの基礎を再確認したい方にも有用な内容となっており、これを読めば、オペアンプの基礎的な概念を理解できると思います。
リンク:オペアンプ基礎講座 ~種類や特性について詳しく解説!~
Comment